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天文・鉱物・その他。調べたことや自分用のメモなどを書きます。

【読書感想文】パロマーの巨人望遠鏡

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ヘールは「神はかけはじめた蜘蛛の巣に糸を与えたもう」としばしば言った。彼のために彼の弟子たちは多くの蜘蛛の巣を作り、なお今も作りつつある。その最大のものはおそらくパロマーであろう。*1

 

目次

 

基本情報

 原題は『THE GLASS GIANT OF PALOMAR』。天文学者G.E.ヘールとパロマ天文台の建設事業をめぐる科学ドキュメンタリー。原書はD.O.ウッドベリーよって書かれ、1939年に初版が発行された。しかしこの時点で天文台は未完成であり、また戦争の影響で完成は1948年までずれ込んだ。そのため『後日物語』という章が付け加えられ、天文台の完成から初観測までの記録を補っている。

 訳者は関正雄・湯澤博・成相恭二とあるが1950年に最初の邦訳が関・湯澤によって成され、2002年岩波から出版される際に成相による仮名遣いの現代化や修正が加えられた。 

パロマーの巨人望遠鏡〈上〉 (岩波文庫)

パロマーの巨人望遠鏡〈上〉 (岩波文庫)

 
パロマーの巨人望遠鏡〈下〉 (岩波文庫 青 942-2)

パロマーの巨人望遠鏡〈下〉 (岩波文庫 青 942-2)

 

  

あらすじ

 メインはパロマー山の天文台建設であるが本書はヘールの人物伝でもあり、前日譚として若き日のヘールが天文学と物理学の統合を志しヤーキス天文台の建設に奔走するところに始まる。分光観測の先駆的存在となり、詳細な太陽の研究のため、より大きな望遠鏡の必要性からウィルソン山天文台の60インチと100インチの望遠鏡、そしてパロマーの200インチ望遠鏡の建設に至るまでを描く。

  

 

感想

 読むきっかけになったのは、図書館で読んだ恒星社の『現代天文学講座15巻(天文学史)』*2の巨大望遠鏡建設に関する章。19世紀末から20世紀前半にかけて建設された巨大望遠鏡が天文学上の重要な発見を支えたことに加え、事業の中心的役割を果たしたヘールの人物像や資金調達能力に興味が湧いた。 (後は、タイトルが強そうでかっこいいから)

 読書が苦手ですぐ飽きてしまうのに、冬の長い夜に空が白むまで読みふけるという経験をした。翻訳もあまり古さを感じず読みやすかった。プロジェクトXのようだと評す向きもあるが、ありったけの知識・才能・発想・技術を投入する知的総力戦の有り様は『シン・ゴジラ』の巨災対にも似ていた。

 

 物語の構成は大体時系列に沿って、巨大な望遠鏡と天文台を作るためにヘールをはじめ関係者たちの仕事がひたすら綴られていくというシンプルなもの。しかしあらゆる箇所に教訓やインスピレーションが満ちていて、それら一つ一つについて書きたくなるが、それでは感想文ではなく全体の要約となってしまう。

 まずは描写された内容そのものよりも、本文に触れつつ科学史を綴るというメタ的な部分に注目したい。その上で特に気になった人事にまつわる部分について書く。(ネタバレ注意)

 

 

科学史を編むということ

  著者の取材に対する姿勢は冒頭の「緒言」で語られる。歴史を編むためには多くの関係者に取材をしなければならないが、各人の証言に矛盾なく整合がとれていることはない。全ての人からジグゾーパズルのピースを吐き出させ、それを組み立てれば一枚の絵が出来るという種類の仕事ではない。関係者それぞれに少しずつ違う見方や思惑がある。

私の物語中の人物の、一人としてその結果に充分満足していないことは私も知っている。その一人一人にとって、二百インチ望遠鏡は私が記述したものよりもいま少し特別なものなのである。*3

という言葉に象徴されるように、関係者各人の証言と、事業全体を描いた物語との間には違いがあり、全体は部分の総和と一致しない*4

 

 また科学史の編纂は、成果の上澄みだけを遡って都合よく照らすスポットライトではなく、そこで何が試みられたのか、という事実に対して誠実でなければならない。 パロマーの二百インチ望遠鏡の鏡材として最初に試みられた(そして失敗した)熔解石英*5に関する章の頭で、批判を込めて次のように述べている。 

しかしこれは失敗の物語ではなく、名誉ある敗北の物語である。それは科学の偉大な伝説の一つであるにもかかわらず、これまでこのことは適切に伝えられず、むしろ故意に無視されたきらいがある。これには、商業上の成功を崇拝するアメリカの風習が、責任の一端を負うべきである。<中略>新聞、雑誌は突然この報道をやめ、誰もがこれに触れないようになった。*6

熔解石英にまつわる挑戦は二百インチの円盤をもたらさなかったが、それ以外の多くのものを残した。現代はアマチュア天文家が溶融石英を用いた光学機器を一つくらい持っていておかしくない時代となっている。

 前人未到への挑戦は開拓者の仕事であり、そこには本質的に試行錯誤と失敗が含まれている。すでに出来上がった道の始点と終点を繋ぐのではなく、まさにこれから道をつくる開拓という行為そのものに好奇心が向けられていることが必要だと感じた。

 この熔解石英の試みには「15章:熔解石英」「16章:困難の係数」の2章が割かれている。困難な仕事の中でいかに多くのリスクを想定しなければならないか、それらの総和が対処可能な範囲に収まるかという点について教訓の厚い部分である。

 

 次に引く一節は望遠鏡の鏡の裏面を肉抜き構造にするデー博士のアイデアが採用された後に付け加えられている部分である。このアイデアで作られたガラス円盤の鋳造は結果的に成功し、巨大なガラス円盤でありながら、強度を確保しつつ重量を抑えることができた。

事実を正確なものにするために、肋骨付き円盤をはじめて考案した人は誰であるかについては疑問があるということを、ここに記しておく必要がある。デーがニューヨークの会議でそれを提案したことには一点の疑いもない。しかし、リンのトムソンの同僚は、教授が同様の考案のスケッチを何年か前に自分のノートに記しており、事実、その考案をパサデナのアンダーソンに知らせたと主張している。また他には、ピースがはじめて考案したという人々もいる。しかし構造上の補強のために目的物の裏面に肋骨をつけることは古い技術上の考えであって、特許を得るようなものではない。したがってこの問題は、以上の人々の間にその栄誉を分け与えることによって、結着をつけるべきものと思われる。*7

偉業を描く物語はシンプルな英雄譚に陥り、特定の誰かにスポットが集中しがちだが、著者はその点について慎重な姿勢を貫いている。ヘール自身もまたフェアであり、「功績はその属すべき人に帰せしめるというやり方の人であった*8」らしい。

 この物語の主人公は確かにヘールであり、彼の業績は偉大だった。しかし彼は物語の切り口であって、必ずしも終始一貫して主人公であったわけではない。多くの人間が携わり、努力し発明した物語が複雑に絡み合っている。特にパロマー山天文台が実際に建設される頃になると、ヘールの出番は途端に少なくなる。

 巨人望遠鏡はひとつなぎの発明品ではなく、多くの事業の集合体であり、そこではユニークな人物たちがそれぞれに活躍した物語がある。そんな多くの主人公たちが次々にバトンタッチしていくのが本書の魅力の一つでもあると思う。

 

 次節ではその人物たちを挙げて、彼らがどのように採用され、いかに手腕を振るったかについて書く。

 

 

人材登用

しかし理事会は、著名人ばかりを集める方針を採ったわけではない。理想をもち進取的精神がある無名の人々 ―その多くは青年であるが― が全国各地から採用された。「常に若い人たちが必要である。この仕事が完成する前に、われわれの多くはこの世を去るだろう。二百インチの望遠鏡を老人ばかりにまかせておくわけにはいかない」とヘールは主張した。
こうして、あらゆる仕事について最善の適任者を集めるという方針がきめられた。その人が何者であるかとか、どこから来たとかは問題ではなかった。*9

 本書中で際立って面白いと感じたのは人材登用に関する部分である。組織の人事に関してまとめている章もある*10が、プロジェクトの様々な部分で個別に紹介されるユニークな人材とそれにまつわるエピソードに惹かれることが多かった。

 前人未到の挑戦を行う中、重要な役割を果たす人物がどのように選ばれるのか。もちろん関係各分野の専門家は必要だが、専門教育を受けたわけではない素人が優れた才能を発揮しするケースが何度も紹介されていた。

 

 ヤーキス時代に雇われたS.W.バーナムは優れたアマチュア天体観測家でシカゴの法廷記者だったが、観測に参加してからはたびたび重大な発見をした。*11

 同じくヤーキス天文台に雇われたジョージ.W.リッチーは優れた技術者で、ヘールが天文台に併設した機械工場で活躍した。彼は後にウィルソン山天文台の60インチと100インチの反射鏡を製作した。元々は家具職人であり、高校で手工教師*12をしていた。*13

 

 パロマー山天文台の建設に移って、最初にクローズアップされた人物がラッセル.W.ポーターである。MITで建築を学んだため技術者としての専門教育を受けているが、建築家としてではなくアマチュア天文家として名が知られていた。彼一人について本が一冊書けるくらいエピソードの豊富な人物で、冒険家として北極探検に赴いたこともある。職を転々としながら光学機器の商売を始め、自作の望遠鏡が雑誌編集者の目に止まり、合衆国内でのアマチュア天文家の間では有名人になった。アマチュア天文家による天文台の設計・建設も行った。また美術の素養があり絵も描けるため、パロマー天文台のイラストも手がけた。本書中にもポーターの手によるイラストが多数掲載されている。いったいこの人は何者なんだ。

 天文台建設に先だって、カリフォルニア工科大学の天体物理学研究所の設置に関わり、ここが後にパロマー天文台を建設する際の前線基地となった。

ポーターはその仕事に夢中になった。彼は、実は自分で考えているよりも望遠鏡について知っていた。二百インチの望遠鏡については、ずっと以前から考えていたということに、自分でも気が付いた。いろいろのアイディアが流星群の夜の流星のように、彼の鉛筆からほとばしり出た。*14

 個人的に好きな一節です!

  実際に天文台の建設が始まると、あらゆる部分で彼の設計が始まる。パロマー山上で単身テント泊をしながら予備測量を行い、これから建設する施設の模型を造り、滞在する天文学者のための宿舎を始めとした様々な施設の設計を行った。

 

 反射望遠鏡の心臓部は紛れも無く主鏡であるが、二百インチのガラス円盤を狂いなく放物面に磨き上げる仕事をした主任光学技師のマーカス.H.ブラウンはウィルソン山で資材(と便乗する天文学者)を運搬するトラックの運転手だった。 天文台の重要な仕事に関わりたいと考えた彼は光学理論を独学しながら、ひたすら機会を窺った。

 彼が努力の末に二百インチのガラス円盤を磨くポストを得た後に始めたのは助手のリクルートだった。ブラウンの人選の仕方は、その出自や過去を問わず適正を見極めるものだった。そこで選別にかけ残った者たちを技術者として育てることにした。

二十一人の工員の一人は、七年間保険のセールスをやっていた人で、それまでガラスというものに触れたことがなかった。ブラウンは彼に、四十五インチの鏡をあてがった。もう一人は、パサデナのごみ運搬トラックの運転をしていた人で、彼は三十六インチの鏡を製作することを命じられた。彼は間違いをおそれ、その製作に五ヶ月もかかった。しかしブラウンが次に与えた仕事を、彼は四週間でやってのけた。第三の男は、工場に来るまでこれという仕事をやったことのない男であったが、その後この連中のうちで最も有望なものになった。*15

人を見る目というものがどうやって養われるのかは判らないが、ヘールやブラウンのやり方で選ばれた人員のユニークさには目を瞠るものがある。現代日本のそれと比べるとあまりにかけ離れていると感じてしまう。

 ウィルソン山時代にドウドという運転手が雇われた時のウッドベリーの言葉を次に引用する。

 天文学者たちはいつもこのようにしており、人を雇うのはその知識よりも精神に重きを置くのである。要するに彼らは開拓者であり、彼らの必要とする人は彼ら自身のような人々である。*16

 ブラウンは天文学者ではなかったが、彼の採用方針は間違いなくこの流儀に沿ったものだったと思う。彼は部下を養成するとき、教えこむよりも部下自身にやり方を発見させることが有効だと気がついている。

 

 ここで最後に取り上げたいのは、米海軍のクライド.S.マクダウェル大佐で、彼は軍艦の建造に携わっていた技術士官だった。本書ではとくに書かれていないが、昔の海軍軍人であるからには古典的な球面天文学に関しての知識は持っているはずなので、天文に関して全くの素人ではないと考えられる。

  彼がパロマー山のプロジェクトに雇われたのは、設計として存在し予算も得た計画を現実の望遠鏡として建設する際の責任者としてだった。最大の望遠鏡を作るのは関係するあらゆる分野の技術者と天文学者の共同作業になり、部品を発注する企業や職人・職工を合わせれば厖大な人員を動員しなければならない。そこで指揮をとり計画のマネージメントを担当する立場として彼が選ばれた。

  建設のスタート時に認識された問題の一つが、下請けに関することだった。単に仕事を企業に投げてしまえば、元請け企業は出来ないことを下請けに割り振るようになる。理事会は巨大なプロジェクトでこれを行うと不利益が大きいため、建造は理事会が直轄するものでなければならなかった。

 これは現代日本でも耳目に入る多重下請け問題と似た構図で、それを防ぐための方策を素早くトップダウンで断行した点が興味深い。マクダウェルの役割は理事会に直接雇われた建設コンサルタントに近い存在かもしれない。

 彼の圧倒的な行動力は軍人ゆえのものなのか、少々強引で他を急かすところがあったが、一方では自身のやり方を省みながら周囲に適応する思慮も持っていたことが窺える。

彼はカリフォルニア工科大学に落ち着くようになってから、海軍式のやり方は外だけにしたほうがいいと悟った。ここはまったくの別世界である。精緻な思索をする科学の世界である。それ自身の活動の速度があって、外洋における速度とは異なるのである。*17

  ただし外部との交渉事の場では、その豪腕を遺憾なく発揮して建設に関わる企業や当局との取り決めを有利に進めるだけの能力があった。

 

 

巨人望遠鏡とは何か

 本書のタイトルを最初に目にしたとき、巨人望遠鏡という見慣れない単語が気になった。要は巨大な望遠鏡を表現してのことであるが、私としてはそれ以上の意味を期待しながら読んでいた。

 パロマー山天文台の巨人望遠鏡が完成する前にヘールは没したが、彼の人生とその遺産についてウッドベリーは次のように評している。

彼はその一生を通じて闘ってきた仕事を、他の多くの人々よりたくさんなしとげた。そしてその死後、一群の重要な計画すべてを、有能な若い人々の手に渡すことに成功した。ヤーキス、マウント・ウィルソン、国立学術会議、国際天文協会、パロマー、その一つ一つが記念碑であり、しかもその一つ一つが記念碑以上のものである。これらは、天才に対する単なる記念物ではなく、あらゆる科学の進路に多大な影響を与えつつ、死後も生き続ける、天才の精神の不滅の部分である。*18

 「巨人の肩の上」という表現がある。巨人の肩の上に立ってこそ遠くを見渡せるように、過去の偉大な仕事の上に立って次の新たな偉業が生み出されるという比喩であるが、その意味でヘールはまさしく巨人となった。だから、最終的にヘール望遠鏡と名付けられたパロマーの二百インチ望遠鏡を「巨人望遠鏡」と呼ぶのは、たとえ意図したものでなかったとしても、洒落たネーミングだったのではないだろうか。

 

*1:下巻p.222

*2:CiNii 図書 - 天文学史

 

*3:上巻p.20

*4:適切と思われるか分からないが、これは何か事件や事故が起きた時、捜査にあたる警察官(あるいは取材するジャーナリスト)が目撃者から供述調書を取る作業に似ているかもしれない。目撃者全ての証言は証拠として一定の価値があるが、主観が混じっていたり記憶の曖昧な箇所もあるだろう。それらを繋ぎあわせて「実際に何がどのように起こったのか」を可能な限り客観的に再構成しなければならない。

*5:今は溶融石英と呼ばれるのが一般的

*6:上巻p.223

*7:上巻p.265

*8:上巻p.266

*9:上巻p.205

*10:上巻p.198

*11:上巻p.89

*12:技術科教員のようなものか?

*13:本書に描かれているG.W.リッチーの姿は主にここまで。ウィルソン山天文台の100インチフーカー望遠鏡が完成し、1917年の11月にテストが成功した後、「彼は彗星のごとく静かに神秘的に天文学の世界を去っていった。(p.174)」とある。

 ところが調べてみると、このあと彼はフランスへ渡り、反射望遠鏡が巨大化することで生じる問題について研究を行った(後述)。アンリ・クレティアンと共にリッチー・クレティアン式の望遠鏡を発明していたが、1927年には最初のリッチー・クレティアン望遠鏡(60cm)を完成させた。1930年にアメリカに戻ると1mのリッチー・クレティアン望遠鏡を米海軍天文台アリゾナ州フラッグスタッフ)のために製作した。これらの仕事を考えれば天文学の世界から去ったとは到底思えず、単にウッドベリーがウィルソン山以降のリッチーを知らなかった可能性がある。原書の初版は1939年だから知り得なかったことではないが、パロマーに参加しなかったリッチーのその後について情報を欠いていたのかもしれない。

 

c.f.1947MNRAS.107R..36. Page 36(G.W.リッチーの訃報記事)

 ちなみにこの記事によれば、フランスで彼はサン・ゴバン社と共同で肋骨付きの鏡の実用性に関する実験をしている。そしてp.218ではパロマーの二百インチの鏡をどのように作るかの議論でリッチーの実験についても検討している(そして不採用になった)と書いてあるため、ウッドベリーが渡仏後のリッチーを全く知らなかったということでもないらしい。

*14:上巻p.212

*15:下巻p.156

*16:上巻p.152

*17:下巻p.35

*18:下巻p.220