基本情報
以前読んだ『パロマーの巨人望遠鏡』(以後『巨人望遠鏡』と略す)に続き、今度は日本の国立天文台すばる望遠鏡*1を建設するお話。実際にプロジェクトの中核を担った小平桂一元国立天文台台長による自伝風の実録。『巨人望遠鏡』で翻訳を行った成相氏もすばる望遠鏡に参加しており、本書中でも度々名前が出てくる*2。
すばる望遠鏡は1999年1月に稼働を開始、この本は同年3月に出版された単行本が2006年に文庫化されたもの。
宇宙の果てまで―すばる大望遠鏡プロジェクト20年の軌跡 (ハヤカワ文庫NF)
- 作者: 小平桂一
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 文庫
- クリック: 11回
- この商品を含むブログ (29件) を見る
全体的な感想
「外国ではこの手の望遠鏡を造らないんですか」
「いいえ、外国でも重要性を認めて計画を推進しています」
「それを使わせてもらえばよいではないですか。お金を一部払ってでも」
天文学者の答えは次のとおりだ。
「カラヤンのベルリン・フィルのCDが買えれば、日本にはオーケストラが無くて良いのでしょうか。自分たちで音を出したくはありませんか。文化の享受ではなく、文化の創造なのです。」(p233)
『巨人望遠鏡』は一世紀前後の時間の隔たりがあるアメリカの話で、自分にとってはどこか伝説や神話の靄の向こう側を観ているような感があった。一方、本書は現代の日本(とハワイ)が舞台であり、同様に『巨人望遠鏡』の読者たちによる試みであるため、リアリティの体感値では切実さがより深い。
『巨人望遠鏡』と違い、あくまで著者の一人称視点の記録であり、著者から見えないところでプロジェクトが動いている部分もあるため、『巨人望遠鏡』のような複眼的にプロジェクトを総観するものではなく、個人の心境が多く綴られている。
著者は天文学者であり、プロジェクトを率い、後に国立天文台の台長を務めたため、技術的な視点よりは日本の天文学者としての大望遠鏡に対する想いと、組織や制度づくりに関する視点が優っていた。『巨人望遠鏡』では詳細に描かれていたガラス円盤の鋳造・主鏡研磨などは、本書では業者の選定・発注・完成後の輸送などの時点で軽く触れられるのみだった。
その一方で、制度面での課題と取組みが多く触れられており、最先端の望遠鏡の必要性を論じるのはもちろん、それを運営するための人的な仕組みの構築に関して多くのページが割かれていた。基礎研究について、「それが何の役に立つか」が愚問であったとしても、公的な予算を取るためには説得のプロセスが必要であり、文部省や大蔵省はもちろんのこと、外務省や人事院に出向くなど、組織の運営者や事業家的な交渉の描写が多い。科学者が科学を語るだけで果たせる仕事ではないらしい。
公的な予算獲得・使用の難しさの一方で、トヨタ財団からの支援を受ける場面では私的な資金の柔軟さについても述べられており、それが天文学振興財団の設立*3につながっていくなど、天文学そのものの発展に貢献するため制度面での整備を行っていく視点が印象的だった。
気になった細かい点
- いまTMTと言えばThirty Meter Telescopeだが、本書では過去に存在したTen Meter Telescopeという構想について言及がある。
- すばる以外にも様々な観測所の構想があり、ヨーロッパ南天天文台のVLTやALMA、ジェミニ望遠鏡、スーパーカミオカンデ、重力波望遠鏡の話題すらあった。どれも今は実現されているが、当時はまだ構想・計画段階だった。
鏡のこと
一枚鏡として当時世界最大のもの*4だったすばる望遠鏡の主鏡はガラス円盤の鋳造がコーニング社製、研磨を担当したのがコントラベス社だった。コーニング社はパロマーの200インチの円盤を鋳造したメーカーだが、コントラベス社は東京天文台に少し縁のある会社のようだった。
この会社は、昔「ブラッシェア社」と呼ばれた研磨会社の技術を引き継いでいると聞いていたので、行ってみる気になった。東京天文台にある一番古い小さな望遠鏡が、実はブラッシェア社製だったのだ。その会社はもうなくなって、オーエンス・イリノイという会社に技術が移り、それがまた解体されて、コントラヴェス社に伝わっているということだった。(p.136)
この「東京天文台にある一番古い小さな望遠鏡」が気になったので、調べてみると天文情報センターの資料に記載があった。
http://open-info.nao.ac.jp/engipromo/draftparts_2017/gk_22.pdf
現在、上野の国立科学博物館で展示されているトロートン製20cm屈折望遠鏡を購入したのが1880年(明治13年)、ブラッシャー天体写真儀はその16年後の1896年(明治29年)だとのこと。観測用のドームは取り壊されたが天体写真儀自体は現存しているらしいので、今度国立天文台に行ったらぜひ見てみたい。
ニューヨーク州カントンという街にある工場で鋳造されたガラス円盤は研磨の為ペンシルベニア州ピッツバーグへ送られるが、輸送経路はセントローレンス川→オンタリオ湖→ウェランド運河→エリー湖→陸路となっている。『巨人望遠鏡』を一度読んでしまうと鏡の輸送という作業が気になってしかたがないので、地図で調べてみた。
本書で詳しく描かれているわけではないが、オンタリオ湖とエリー湖の間のウェランド運河が少し興味深かった。 2つの湖には高低差があり、エリー湖が高い位置にある。エリー湖からオンタリオ湖に注ぐ水の流れはナイアガラ川(ナイアガラの滝)として知られているが、今回の輸送ではこの流れを遡上しなければならない。
自然の川が巨大な瀑布となっているため、水運のためには平行して建設された運河を通航することになる。運河には閘門(こうもん)と呼ばれる、異なる水位の間を行き来するための施設が合計8つあり、これを通過してエリー湖に至る。肛門ではない。
陸路では大きな荷物の運搬のため、交通整理などの措置が必要になる関係から、事前にペンシルベニア州警察に許可を得ることになっている。警察は運搬経路上のハイウェーへの車の乗り入れを控えるように地域へ呼びかけたため、かえって野次馬を引き寄せてしまったらしい*5。
パロマーの200インチ鏡でも輸送に関しては一騒動あったため、少しニヤッとなってしまった。ペンシルベニア州警察の中の人はもちろん『巨人望遠鏡』を読んでいなかったのだろうと思う。
研磨を終えた主鏡はピッツバーグからオハイオ川からミシシッピ川へ入り、メキシコ湾に出る(p.393)。あらためて経路を確認してみると、アメリカを縦貫するミシシッピ水系の巨大さに驚いた。GoogleMapsの距離測定を信じると、海に出るまでに3100km弱の道程を旅したことになる。
暇だったのでかなり細かく計測点を打ってしまい、気持ち悪い絵面になった。鏡はメキシコ湾からパナマ運河を通って太平洋へ出てハワイまで運ばれる。
ところで話が脱線してしまうが、鏡材を選定する過程でアリゾナ大学に触れられているエピソードを一つ。
同じ年*6の11月には、アリゾナの天文台の調査に出掛けた。アリゾナ大学のローエル天文台のロジャー・エンジェル博士は、ハニカム鏡の大々的な開発実験を進めている。アリゾナ大学の光学研究センターと協力して、フットボール競技場の観覧席の下の空間に、大きな鋳造工場を建設していた。(p.98)
結局、アリゾナ大学との契約には至らなかったのですばる望遠鏡とは関係ないが、フットボール競技場の観覧席の下の工場は現在、各地の大望遠鏡の鏡の製作を行っているミラーラボという組織となっている。一枚鏡として世界最大となるLBT(大双眼望遠鏡)の8.4m鏡や、東京大学アタカマ天文台の6.5m鏡の製作を担った。
素人考えだと鏡の製作はもっと静かな環境がふさわしい気がするし、コントラベス社の研磨工場は廃坑を利用した地下空間にあるが、それとはまるで対極にあるような喧騒のど真ん中にあるのが面白い。他に土地はなかったのか。
「すばる」という名前
世界最大クラスの望遠鏡でも、LBT(Large Binocular Telescope)とかVLT(Very Large Telescope)とかTMT(Thirty Meter Telescope)など中学生が考えたような名前(失礼)が付いていることもあるなかで、「すばる」という名前はとてもいいと思う。公募で選ばれ、最終的に「みらい」「すばる」の二候補となった中から選ばれたらしい(p.270)。
太平洋を航海したハワイの人々にとっては、水平線に昇るプレアデス星団が、空から見つめる神々の小さな眼に思えたのだろう。振り返って、僕らが大望遠鏡と称している口径八メートルも、宇宙から見れば、ちっぽけなものだ。何億年も何十億年もかけて広がってくる光の波の、ほんの微少な一部分だけが、この鏡の面に入る。地上に振りそそぐ他の光子は、すべて無駄だ。僕はこうして「すばる」の名を納得した。「昴」の漢字に現れるきらびやかさではなく、「人類の小さな眼」としての八メートル望遠鏡に託した、謙虚な祈りのような気持ちの表象としてだった。(p.272)
最後に、すばるの主焦点カメラHSCで撮影した画像を見れるビューアーがあるので、ここでいろいろ見てみよう。